四季折々の浅草。みなさんお揃いでどうぞ
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◆5月,6月の最終土,日曜日 お富士様の植木市
◆6月18日,7月10日,
  8月24日
お茶湯日
◆7月9日,10日 四万六千日とほおづき市
◆7月の最終土曜日 隅田川花火大会
◆9月の日曜日 浅草サンバカーニバル


お富士様の植木市 <5月,6月の最終土,日曜日>
 植木市とは台東区浅草5-3-3(浅草警察署斜め前)にある浅間神社(俗にお富士様)の祭日の別称で植木市が開かれる処から呼ばれるようになりました。浅間神社はその昔浅草寺の支院の修善院(今の富士小学校の処)が別当で管理しておりましたが、明治の中頃廃絶し、現在では浅草神社の宮司が管理しております。
 祭神は木花咲耶姫(このはなさくやひめ)で、元禄のころ駿河国富士郡浅間神社から勧請したものと云われますが、つまびらかではありません。この社の位置は富士山から裏鬼門にあたり、この小高い丘の上にあるので、富士山がよく見えたと云われております。

 昔から富士山に対する信仰は盛んで、全国各地に浅間神社の勧請や富士講の組織作りが行われ、富士山の山開き6月1日には、富士詣りが出来ない人々が各地の浅間神社に参詣したと云われます。従って当初は垢離(こり=神仏に祈願するとき心身を清めるために水を浴びる)をとって身を浄め、白衣のかたびらを着て、夜明けからお詣りしたようで、元禄以後は特に子供の参拝が多くなり、垢離をとった形式にかたどり、散らし髪で参拝したと云われております。

 昔の祭日は5月晦日と6月朔日(ついたち)で明治以降は富士山の山開きが7月1日になったので、6月晦日と7月朔日にも行われるようになりました。合計4日間の珍しい祭日となっております。
 表参道の富士通りには色々と物売りが出、明治以降は六郷家の下屋敷跡を中心に植木市が立つようになり、丁度入梅時で植木を移植するのに最好期にあたり、お富士様で買った木はよくつくと言い伝えられて、次第に盛んとなり、現在では5月・6月の最後の土日に柳通りを中心に約350店の植木屋で時ならぬジャングルを現出します。因みに平成7年の浅草警察署の調査では4日間の人出延べ33万人余と云われております。

 戦災後見なくなった麦藁細工の蛇は、宝永年(約250年前)駒込の百姓喜八と云う人が夢告により、疫病よけ、水あたりよけの免符として広めてから、霊験あらたかと評判になり浅草でも売り出されるようになりました。 古川柳「富士土産舌があったりなかったり」雑踏で麦細工の蛇についている赤塗りの附木で出来た舌を何処かへ落としてしまったと云う意味の句で参詣者の賑わいが分かります。


お茶湯日(功徳日) <6月18日,7月10日,8月24日>
 仏様には色々なご縁日があり、観音様のご縁日は十八日、地蔵様のご縁日は二十四日とか、古くから云われておりますが、室町末期以降この他に功徳日が設けられ、この功徳日にお詣りすると百日に向かうとか、千日に向かうとか、同じ功徳にあずかると云われ、いわば特別デーとして広められてきました。
 功徳日のことを「お茶湯日」とも云って、信徒が、観音の宝前に献茶されたお下がりを頂いて喫む風習が古来からありました。実は毎日献茶しているのですが、功徳日に限って特に信徒へ授与され、これを講員組織にして出来たのが「お茶湯講」で、現在では「月参講」と称して講員は5000人以上にも及んでいます。
 浅草寺でこの「お茶湯講」が組織されたのは、天保時代からで、当時の世話人発行のチラシも現存しております。


四万六千日とほおづき市 <7月9日,10日>
●功徳日
 仏様には色々なご縁日があり、観音様のご縁日は18日、地蔵様のご縁日は24日とか、古くから云われておりますが、室町末期以降このほかに功徳日が設けられ、この功徳日にお詣りすると百日に向かうとか、千日に向かうとか、同じ功徳にあずかると云われ、いわば特別デーとして広められてきました。観音様の功徳日で日数の一番多いのが7月10日で、この日にお詣りすると四万六千日分に相当すると云うことで、江戸時代からこの日のお詣りが盛んになってきました。

 四万六千日と云う数については、八万四千の法門とか白髪三千丈の類で、単に多いことと解釈して差し支えありません。いわば仏縁を結ばせる為に考え出された一つの方便云と云えましょう。この他、白米一升分は四万六千粒にあたり、この日観音様にお詣りすると、一生を通じて無事息災に過ごすことが出来るとか、四六時(1日)の千日分が四万六千で、これが根拠になったとか、源頼朝が石橋山の合戦に敗れ、源氏ゆかりの将兵を集めて、浅草寺境内に陣したときが7月10日で、その軍勢が四万六千騎あったことからとか、色々と云われておりますが、すべて茶飲み話の域を出ません。

●雷除けのお守り
 江戸時代にはどういう理由か、アヅキ色をした「赤とうもろこし」が雷除けのまじないになると人気を集め、7月9日、10日の2日間だけ浅草観音の境内で売られてきました。ところが明治の始め不作の年があって、一軒もとうもろこし屋が出なかった為、参拝者の要望に応じ、浅草寺から竹串にはさんだ三角形の「雷除守護」のお札が出されましたが、これが次第に有り難がられるようになって、とうもろこし屋の方は影がうすくなり、昭和9年頃には全く姿を消してしまいました。


●ほおづき市
 7月9日、10日の四万六千日の日、浅草寺境内は450店の「ほおづき屋」、350店の売店で埋まり、夜を徹して賑やかな売声は浅草の夜空にこだまします。
この市の人気者、千成りほおづきは、たった2日間の浅草の四万六千日を目指して、春先から江戸川の鹿骨町で栽培されますが、天候に左右されて、出来不出来の多い植物で、不作の年には値段の高騰を招くと云われております。

 このほおづき市も200年近く昔の明和年中に起こったと云われ、山東京伝の「蜘蛛の糸巻」によると、芝青松寺の門前ら武家屋敷に奉公してていた仲間(ちゅうげん)が、6月23日の朝、庭を掃除中に一株の千成りほおづきを発見し、前夜愛宕権現の霊夢にあずかったことを思いだし、「六月廿四日の功徳日に青ほおづきの実を、愛宕の神前で鵜呑みにすれば、大人は癪の種(腹の立つ原因)を切り、子供は虫の気を封ずる。」と云うお告げがあったと吹聴した所、これを早速翌廿四日に試みる人があり、不思議と効能があった為、いつしか境内に御夢想の虫薬と称して、青ほおづきの市が立つようになったと云われています。

 この六月廿四日は愛宕権現の本地仏「地蔵様」のご縁日で、しかしても四万六千日に当たるとされておりました。元来、四万六千日は観音様の功徳日であった所からいつしか浅草にもほおづきの市が立つようになりかえって愛宕をしのぎ盛大になったわけであります。因みに青ほおづきは漢方では、解熱剤や婦人の胎熱に特効があるとして、江戸時代に薬用として用いられて来ましたので、満更いわれのない事ではない様であります。

隅田川花火大会 <7月の最終土曜日>
 隅田川で初めて花火が打ち上げられたのは、徳川八代将軍吉宗の代で、享保18年(1733)5月28日と云われます。飢饉や悪病の流行など、暗い世相を打開しようと、水神の慰霊祭を行い、両国橋付近で花火を打ち上げたそうです。以来、両国の川開きとして250年の伝統を保ってきましたが、交通その他の事情により、昭和36年を最後に中断しました。それが昭和53年、東京都や沿岸4区の肝いりで実行委員会が組織され、隅田川花火大会として復活しました。しかし会場は両国ではなく、今戸付近と駒形橋−厩橋間との2会場で、玉は小粒ながら15,000発の打ち上げ花火を上げ、見物客80万人を数え、大川端は17年ぶりに人出でごったがえしました。今年は2会場で約2万発を打ち上げ、95万人の人手が見込まれています。


浅草サンバカーニバル <9月の日曜日>
 本場のブラジル・リオから、その年の優勝チームを招待して、若者たちが熱狂の夜をすごすのが、真夏の夜の夢、浅草サンバカーニバル。お祭り好きで、浅草を愛し、リオ通であった伴淳三郎さんと前台東区長内山栄一氏が、意気投合して企画したものです。浅草商店連合会の有志を中心に、実行委員会を結成し、幾多の困難を乗り越えて昭和56年8月29日に第1回浅草サンバカーニバルを成功させました。以後、毎年8月の最終土曜日に開催され、浅草の新しい息吹を示す若者の祭典として、定着しています。40チーム前後、約1,500人の参加があり 、浅草寺を中心に外周を踊り狂うパレードと、その熱気に陶酔する約40万人の観衆で、浅草は不夜城となります。
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資料提供:浅草観光連盟


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