四季折々の浅草。みなさんお揃いでどうぞ
*新型コロナウィルス感染症の状況により変更等の可能性があります
|
◆12月17日,18日,19日 | 歳の市 | |
◆12月19日,1月1日, 2月末日 |
お茶湯日 | |
◆12月31日 | 除夜の鐘 | |
◆1月1日 | 初詣 | |
◆2月2日 | 節分会 | |
◆2月2日 | 福聚の舞「七福神の舞」 | |
◆2月8日 | 針供養 |
■歳の市 <12月17日,18日,19日> 昔は物品の売買交換のため、各所に定期的な市が立ちましたが、江戸では毎年三度の大市の中で、12月の市が最も栄え、これを歳の市と称しました。塵塚談(文化11年、1814)に「浅草観音の市、諸人正月の飾り物、吉凶を祝い、此の市にて求むる事なり、外に市なし。」と記され、江戸中期頃までは、正月用の歳の市といえば浅草に限られていました。この市は納めの観音詣にあたる17日、18日に開かれ、浅草市とも呼ばれ、豊国の錦絵にも画かれるなど、重要な江戸の年中行事でした。 江戸中期までは歳の市に出かけるのは男だけで、女は出向きませんでした。武家や大店は、家来や奉公人に用心籠や長持ちをかつがせ、大挙して浅草にくり込み、毎年きまった店で買い、帰りには料理屋へ寄って威勢をつけるのが、見得の様にもてはやされた様です。この様に、昔の歳の市は浅草寺境内だけでなく、南は駒形、蔵前、浅草橋、西は田原町から上野山下まで小屋掛け店が続いたという盛況で、古川柳に「市の人 人より出でて 人に入る」とうたわれた程でした。 江戸時代の浅草の俚謡が当時の模様を良く伝えております。 「浅草市の売物は、しめか、飾りか、橙か、雑器に、木鉢に、摺子木に、火打石や、火打鎌、五徳、鉄きう、金火箸、かますかかますか、箕負けた。笹の裏なるお福の面、縁起の百両まけやした。一寸ここらで茶漬にしょ。並木の巴屋、万年屋、せのにしょうか、花屋にしょ。今日は大きに草臥れた。云々..........。」 江戸末期になると浅草の市が終わってから、神田明神、深川八幡、芝愛宕神、薬研堀不動などにも市が立つ様になり、婦女子も市へ出かける様になりました。明治以降は、正月用品の購入も通常の店屋で用を足す様になり、歳の市の面影は次第にすたれて来て、現在では江戸末期から流行しだした羽子板市に重点が移り、盛況を続けております。 なお、浅草寺では、17日、18日の両日、大黒天と恵比須天の二体の福神の御影を特別に加持し、授与しております。
● 羽子板市(12月17日,18日,19日)
■お茶湯日(功徳日) <12月19日,1月1日,2月末日> 仏様には色々なご縁日があり、観音様のご縁日は十八日、地蔵様のご縁日は二十四日とか、古くから云われておりますが、室町末期以降この他に功徳日が設けられ、この功徳日にお詣りすると百日に向かうとか、千日に向かうとか、同じ功徳にあずかると云われ、いわば特別デーとして広められてきました。 功徳日のことを「お茶湯日」とも云って、信徒が、観音の宝前に献茶されたお下がりを頂いて喫む風習が古来からありました。実は毎日献茶しているのですが、功徳日に限って特に信徒へ授与され、これを講員組織にして出来たのが「お茶湯講」で、現在では「月参講」と称して講員は5000人以上にも及んでいます。 浅草寺でこの「お茶湯講」が組織されたのは、天保時代からで、当時の世話人発行のチラシも現存しております。 ■除夜の鐘 <12月31日> 浅草の除夜の鐘は、「花の雲鐘は上野か浅草か」と芭蕉の有名な句で知られている辯天山の鐘を「百八会」と称する会が出来て、108人の信徒が代わる代わるに正零時に打ちならすものです。 この鐘を合図に、浅草は新年を迎える晴れがましさが街にあふれ、初詣りの善男善女が続々として仲見世を埋めつくしていきます。
● 辯天山 ■初詣 浅草観音 <1月1日> 全国の主要な神社仏閣840ヶ所の中でも浅草寺は常に多くの人が初詣に訪れ、正月の浅草は人の波でごった返します。このため古くは、大晦日の夜一度大扉を閉め、元日の午前零時きっかりに再度開いた観音堂の大扉も、危険防止のために開けはなしになり、また参詣客の混雑緩和のため、現在では雷門通りと馬道通りが歩行者天国となります。 辨天山の除夜の鐘が「百八会」の手で打ち鳴らされる頃の浅草寺境内は、華やいだ人々で埋まります。午前零時きっかりに観音堂の扉が開いて、海運厄除けのお守りが売り出されます。除夜の鐘を境にして年の瀬も初春のけじめもなく、大晦日がそのまま元旦につながっているのですが、流石に初詣りともなると、どの顔も豊かに微笑しているようです。そして仲見世から観音堂につらなる表参道の人の流れは、朝になっても、更に三が日引き続いて途絶えることはありません。
永井荷風は「踊子」と言う作品の中で浅草寺初詣りをこんな風に書いています。
浅草寺のご本尊は聖観世音菩薩で、推古天皇33年の3月18日、隅田川から檜前浜成、竹成の二兄弟によってすくい上げられ、この土地に祀られましたが、以後庶民の信仰に支えられ、しだいに大寺となったと云われております。正月の法要としては、1月元旦から6日まで、修正会が行われ、この一年の吉祥を祈願して、鬼追いの儀式があり、1月12日から18日まで7日間、ぶっ通しで温座秘法陀羅尼会が行われ、天下太平、五穀豊饒を祈願いたします。 新春七草まで 絵馬札 授与
大黒天 (浅草寺 浅草2-3-1)
■節分会 <2月2日> ●浅草寺古式追儺式 節分とは1年の春夏秋冬の季節を分ける言葉で、本来4回あるはずですが、現在では立春の前日のみをさしています。 節分に炒った大豆を打って、邪気を払う(追儺)の咒としたのは、日本では室町時代頃からといわれています。大豆が選ばれたのは、魔の目をつぶすとか、マメで暮らすとかの縁起からだろうと思われます。 この習慣が庶民の間に流行しだしたのは江戸時代以後のことですが、浅草寺は元禄頃から庶民を対象とした節分会を実行しており、享保頃には江戸中に有名になっていた事が文献で知られています。浅草寺の節分会の特徴は「節分般若心経日数所」と記された切紙のお御札を1万枚作り、そのうち3333枚を、節分会の法要終了後、本堂外陣の東西の柱に棚をつって、檜前兄弟の末孫が登り、節分と書いた大団扇で煽って撒く行事で、この札を手に入れようと信徒が堂内に満ちて、大変混雑したといわれています。浅草寺節分札の「分」の字は、「人」の下へ「力」と書く特殊な字体で、この「分」を切り取って妊婦に服させると安産の咒となるといわれています。 現在では舞台が本堂東側回廊の外につくられ、一般信徒の有志が年男となり、午後1時と2時の2回に分かれ、行列を作って伝法院より進行し、法要終了後、豆撒きをおこなっていますが、前途の節分札も危険防止のため、形式的にごく少数が撒かれるだけです。
●浅草観音 文化芸能人 節分会 ■福聚の舞(浅草寺宝蔵門 落慶記念) <2月2日> 2月2日の節分会で奉演される「七福神の舞」と5月5日の端午の節句に奉演される「宝の舞」とがあります。 ● 七福神の舞 昔から七福神は福徳の神として庶民の信仰を集めてきましたが、浅草寺の末社の中にも七福神を祀るものがあり、七福神めぐり等も行われておりました。又、江戸末期、猿若三座の一つ市村座の座主は浅草観音に帰依の心極めて深く、自分の座の興行には前狂言として「七福神踊り」を上演して観音様の功徳をたたえました。この「七福神踊り」は長唄もので、享保〜宝暦年間に市村座の立三味線を勤めた初代杵屋宇右衛門の作曲と伝えられますが、市村座では三番叟と同じ意味で毎日の興行に前狂言として稲荷町の俳優(今日の大部屋連中)に所演させ、明治初年まで続きました。従って浅草にゆかりの深いこの市村座の七福神踊りを、昭和39年4月1日、宝蔵門落慶の記念行事として復興することにしたのであります。 恵比須、大黒の二神は素面にし、他の五福神は面蘢をかぶって顔をかくしています 。衣装、小道具は何れも七福神の故実通りにし、恵比須、大黒の二神だけが舞をまい、他の五神は後方に控えています。
● 宝の舞 福徳をあらわす七福神を乗せた船として古来人気のあったのが宝船でありますが、この宝船を多勢の幼児によって引き、観音様の福徳の御働きをたたえたのが、宝の舞であります。昭和47年から始められ、現在浅草寺幼稚園児によって舞われております。 奉演日:5月5日 子供の日 ■針供養 <2月8日> 観音本堂の西側、半円の池に囲まれた木立の中にある淡島社は、享保以前、即ち約290年以前に和歌山県海草郡加太村の淡島神社から勧請されたといわれておりますが、昔紀州辺の漁家は2月8日に漁を休み、釣り針の折れなどを海底に沈めて海神を慰める習俗があったことから、日常使った針を淡島神社に納め供養するようになったといわれています。即ち針供養の当日は一般家庭の婦女は勿論、仕立屋、足袋屋、袋物屋などは裁縫を休み針箱の掃除をし、旧針は三宝にのせて供養し、折れた針は豆腐やコンニャクにさして淡島さまに納め、日常使い古した針に対し、報恩、感謝の念を表すというまことに奥ゆかしい行事で、現在でも和洋裁学校の生徒など大勢の婦人で賑わいます。 |
資料提供:浅草観光連盟 |
浅草への旅 | 浅草絵図 |
久米平内 “縁結び” |
|||
おいしい話 |
バーチャル 千社札 |
浅草うまいもの めぐり |
浅草のまち 今昔 |
||
|
|||||
メニューへ戻る |